・ 現代モノ パラレル

・ 乱菊⇔七緒 意味もなく年齢逆転(過去篇準拠で)

・ べつに何があるわけでもないけど、市丸ギンが七緒の婚約者とかいうとこから話が始まる


 女は、結婚に失敗した。

 

 

 より正確に述べるならば、結婚に至る直前、結納を済ませたその一週間のうちに婚約者の所有会社が不渡りを出し、当事者は雲隠れした。

 残された三十路手前の花嫁候補の親族の憤り足るや並々でなく、かまびすしく相手の不義理と不誠実を責める。しかしとうの花嫁といえば、晴天の霹靂に呆然とするほかなく、かててくわえて目前の危機を見抜けなかった己の不見識に唇を噛むしかない。 くちさがない親族たちも、相手の血縁はおろか関係者が誰も残されていない状況とあっては譴責と糾弾によって鬱憤を晴らすわけにはいかず、勢い身内で不満をごちる結果になる。 彼女は、金を貢がされた訳でも負債を負わされたわけでもなかった。だから余計に、彼女は"被害者"ではなく"見る目のない女"として、肩身の狭い思いをする。

 身内で乱反射した言葉の幾つかは、「あんな男に騙されて」「焦ってからに」と、自覚がないでもない刃となって女の身を抉る。そこに「自分の紹介を無視するから」だの「相談すれば看破したものを」だの、あげく「そういう子だと思ってた」だの、塩を刷り込むような悪意が飛び交うものだから、身を縮こまらせて隠れておくにしくはなく。

 

 だからこうして憂さ晴らしの女子会にも参加せず、実家の風呂でひとり寛いでいる。

「―――七緒、まだあがらないの?」

 湯気のたゆとう風呂場で、ただ静かに足を伸ばしていると、鬱積も疲労も溶け出していく心地がする。その狭い密室が、七緒は好きだった。

「……えぇ、もう少し…」

「あっそ…」

 呼び掛けて来たのは二つ年下の妹で、名前を乱菊という。さとい子だから、悲嘆にくれる姉を慰めにきたのかもしれなかった。

 (あんまりそういう気遣いも要らないのだけれど)

 むしろ、七緒を苛んでいるのは、捨てられた悲しさよりも、結果的なものとはいえ相手の内実と懐具合を見抜けなかった自分に対する羞恥だった。だから心得顔の助言も優しい慰めも、同じに煩わしく疎ましい。そんなものに費やされる時間を、自省と、許されるならば他の誰でもなく自分に対して、少しだけ言い訳することに使いたかった。

 けれど磨りガラスの向こう、妹は立ち去りもせず無言でいる。

 シルエットは薄ぼんやりとかすんで、それでも見慣れた乱菊の姿だった。

「何か、用があるの?」

 敢えて聞いたのは、他でもない七緒が「自分と貴女の間には、自明とするほどの"これから会話する"という共通認識はないですよ」と宣告したまでで。 普段ならばそういうきつい断絶を七緒たちは口にしない。彼女たちの間にはもっと遠慮がある。

「……んーとね」

 乱菊はこちらに背を向けて脱衣所の床にすわりこんだ。 磨りガラスに背を預けたらしく、ガタガタと耳障りな音が反響して届く。

(もう、女優みたいな顔立ちなんだから仕草も磨けって言ったのに…)

 その所作に、いまひとつ優雅さを欠くのが、珠に瑕だと七緒には思える。よく言えばおおらか、悪く言えば所作に繊細な配慮がなく、むしろ猫が棚の上の小物を落として喜ぶような、そういう無駄が端々に現れている。ただ、それも親しみやすい魅力になってるようにも思えて、そのがさつさをにくむことはしなかった。

 がさつといえば、乱菊は、七緒をただ"七緒"と呼び捨てにする。両親は"ななおおねえちゃん"と教えたが、舌足らずな幼児にはそれが難しかったらしく、やがてほかの兄姉に倣って"ななお"と呼びかけるようになった。そして、今に至るまでそれに変化はない。

「七緒さぁ…

 うん、いやごめんね。あたしが話したいだけなんだけど」

 立ち去りそうもないので、諦めて浴槽の縁に肘をついて頭を預けた。

「あたし、あいつのこと知ってたの」

 "アイツ"という音が元婚約者のことを指している、と気づいて思わず頭を跳ね上げた。ばしゃり、という水音が浴室に響いて、七緒は自分の動揺を恥じる。触れられたくない部分に触れられることに、過敏になっている。この密室は、自分のこころの動きを増幅して映し出してしまう。

 

「―――倒産するってことじゃないのよ。

 そんなことあたしにはわからない。 知ってたっていうのは、昔のこと、小さいころの話」

 慎重な七緒は、婚約までその青年を家に連れてくることをしなかった。

「初めてあいつがうちに来たとき、驚いたわ。本当に。 ほっそい笑い目とかひょろい身体とか、あいつだって判る要素はいくらでもあったのに、最初信じられなかった。…あんな、馬鹿みたいに大きくなってるなんておかしいとしか思えなかったし、媚びて頭下げても目の端で相手を観察してるようなそんな狡さは、見せやしなかった」

 簡単に尻尾を出すような狐じゃないのよ?、と冗談めかして言うけれど、引き攣った喉が嗚咽を漏らしそうだった。泣いた顔など、この家に来てから見せもしなかった妹が。

 

『お帰りなさい、乱菊』

 妹ができた日、お為ごかしでも、その言葉が彼女ら二人が家族になる合図だった。 事情があって離れて暮らしていた妹をもう一度引き取ることになったよ、と父親が告げ、母親は嬉しいことね、と戸惑う子供たちの気持ちを誘導した。

 末娘すら中学に入った頃合で、そんな他愛もない嘘など通らないと判りきっていたにもかかわらず、なぜそんな嘘を選んだのかわからない。 ただ少なくとも七緒は正面切ってその嘘に反抗することもなく、家族全員が共犯者のような一種後ろめたい連帯感を背後に感じながら、ままごとに興じるように姉を演じた。

 ただ、七緒が初めて乱菊の眼を覗き込んだとき、血の繋がりなど思うべくもない身体特徴と紛れもない理性が宿っているのを悟って、嘘の嘘たる所以を思わずにはいられなかった。

(このこのことを私は何もしらないし、それを隠せもしない)

 

「―――アイツにもあたしの知らない人生があったんだなって」

 ギンは。と。おそらくふたりは同時に胸のうちで呟いた。

 七緒と乱菊の間は、何もないところからはじまった。乱菊と市丸ギンの間には、つよい何か―信頼だとか愛着だとか、子供の持ちうる純粋で原初的な願いだとか、何かそんなもの―があった。それはふたりが分かたれている間にはそのかたちを保っていたけれど、変わってしまった互いの間で、一度かたちを失ってしまった。

 乱菊は一度彼を失って、そうして今、癒したはずの喪失の痛みを甦らせてしまった。

 目の前にいる男が、あのギンなのか、と小さい乱菊が問うている。

 ともに過ごせなかった時間が、明確にそこにある。

「あたしはあいつに育てられたも同然だったの。どっちも独りで、でもあいつは強くて賢くて、毟り取られるだけの筈だったあたしを大人から守ってくれて手を引いてくれた」

 

 

(なぜ彼ははじめにこの子を守ってくれたんだろう…)

 七緒の知らない、小さな男の子が小さな女の子を庇っている。なぜそうなったのかは知らない、けれど男の子は女の子を大切だと思っていて、その子を生かすことをただひとつの願いとして持ち続けた。それを、乱菊は知っている。だから乱菊はふたりが分かたれた後も、彼を思って生きてきた。

「―――ギンの隣にいるのがあたしじゃないことが悲しいんじゃない。七緒と替わりたいなんて思ってもない。 あいつが笑っていられるのなら、傷つかずにすむのなら、それがいい。そうなって欲しい」

 けれども、男は時間を埋める前に、乱菊に「幸せになるよ」と告げる前に、消えてしまった。

 七緒には、汚名だけが残された。今となっては、彼との間で何が修復可能なのか、分かりもしない。否、それを探すほど、彼に執着が無いのだ。結局のところ。

 ひとつだけ確かなことは、置いていかれたのは七緒ではなく乱菊だということだ。 彼が何処へ、何のために去ったのかは分からない。けれど、彼はずっと守ってきたものを壊してしまって、しかも修復できないまま消えてしまった。

「喜ぶべきだったのかもしれないわ。これでずっとあいつと一緒にいられるって

 でも分からなかった。だってそんなことあいつはあたしに教えなかった」

 ちょっとだけね、思ったの、と途方にくれた声音のまま乱菊が言う。

「例えば七緒とあいつの間に子供でもできたら、あたしはその子を守ることを今までと同じ強さで願える。 子供に流れるあいつの血の分だけ、あたしはあんたと近くなれる」

 血の繋がった、ほんとの姉妹。

 呟きは、七緒には理解しがたかった。その血は一人の男を媒介にしているけれど、彼らを結ぶものは結局彼らの思いでしかない。それでもなお、乱菊の喪失感は胸に迫る。

(失いたくなかったのね…)

「らん…」

 呼び掛けて、言い淀んだ。

 乱菊、と親しげに呼びかけたことなど今まで殆どできなかった。兄姉にまぎれて適当にごまかすか、あなたは、と徹底的に対象化して言葉を続けるか。遠慮も何もなく、名前を呼び合ったことはない。それでも理解しあえたし、共感もあった。

 (こんな躊躇をなくすまで距離を縮めるべきなのか、躊躇いごと抱えてともに在ればいいのか)

 逡巡する間に、それでも乱菊は気づいて振り返った。 七緒ははじめて、妹をただ抱きしめたいと思った。親愛の表現ではなくじゃれ合いでもなく、ただ近づいて手を握り合えば分かるものがある気がして。

 浴槽を出て磨りガラス越しに向かい合う。そこだけ妙にくっきりとした、乱菊がガラスに突いた手のかたちに、七緒は掌を合わせた。

 

「私たち、これからあの人のことを共有して生きていくんですね」

「そうね…」

 生きていく、という言葉は七緒の胸に落ちてじわりと沁みた。 裸の胸に、水滴が落ちて流れる。ガラス一枚を隔てて、互いが向き合っていると、気づいてそれに嫌悪は生まれなかった。

「ありがとう、七緒」